わたしが子どもの頃、東京に住んでいました。両親と祖母、そして4人の弟と妹という大家族。
一家の生活を支えるわたしの父は、自分で小さな会社を経営していたのですが、すっごく変わっていて、私の子ども時代は、父の独自ルールでガッチガチにしばられていました。
そんな父と、結果的にいろいろこじらせた私の思い出話をしたいと思います。
子どもに人権はない
父が毎日のように言っていたのは「子どもに人権はない、二十歳までは親のいうことをきけ」でした。
人権ないって。今の時代にこんな発言をしようものなら、各方面から虐待だのなんだのと叩かれること間違いありません。
そしてその言葉どおり、家の全てを父が独裁者のように決める家庭で、子どもたちにはへんな厳しいルールが課せられていました。
門限が5時だったのがイヤだった
いちばんイヤだったのが、「門限5時」ルールです。これは時間厳守で、ほんの数分遅れただけでも、ものすごく怒られました。
でも、中学生にもなって放課後に友達と遊んでいると、5時なんてほんとうにあっという間で、楽しそうに盛り上がっている友達をあとにして必死で家に帰るのは、なかなか辛いものがありました。
当時は渋谷・下北沢が中高生に人気があり、休みにこういったエリアをぶらぶらするのが何よりの楽しみでした。友達と渋谷の109に行ってソニプラで雑貨を買ったり、下北沢の古着屋さんをめぐっては、格安でTシャツやリーバイスの古着、ネルシャツなんかを見つけるのが楽しくて仕方なかったです。
しかし、5時までに自宅のあった千歳烏山に帰ろうと思うと、午後3時くらいにはもうソワソワして落ち着かず、4時を過ぎるとひとりで先に帰らないといけなくて、悲しく思っていました。
なんで門限が5時なのかといいうと、父は5時半にみんなで夕食を食べたかったという理由でした。
すぐ近くに自分の会社があった父は、毎日きっかり5時に帰って来て、5時半に家族全員で夕食を食べることを習慣にしていました。その時間は、よほどのことがない限り、毎日守られました。
学校では、部活にも入らせてもらえませんでした。
理由は、帰りが遅くなって5時までに帰宅できないからです。
さらに、塾にも行かせてもらえませんでした。
理由は、帰りが(ry
8時には就寝するのでテレビが見れなかった
そして、私たち子どもは8時には寝かされていました。
中学生ですよ・・・?当時は「8じだよ全員集合」が流行っていた時代で、友達はみんなこの番組をみていたけれど、私は見ることができず、学校に行っても会話に入れないのを悲しく思っていました。
でも時々、「わくわく動物ランド(知ってる?)」だけは、8時すぎても見てもいいという変則ルールがあったことを記憶しています。
友達と遊べないのでこじらせた
そんな門限5時と就寝8時ルールから、いつもなんとなく友達との話題には入れない・入りにくいという引け目を感じていて、自分はみんなの輪に入れてない疎外感がずっとありました。
友達はみんな、部活や塾の帰りにダラダラと自由でかけがえのない時を過ごし、いろんなことを話たり笑ったりしながら、仲良くしているんだろうなあ。いいなあ、うらやましいなあ、と。
私はこのままパッとしない・みんなとワイワイできない、つまんないやつのまま、一生を終えるのだ。わたしはだめだ、という卑屈であきらめの気持ちがどんどん強くなり、そうとうこじらせた性格になっていきました。
朝5時半からの強制コワーキング
早く寝ていた私たち子どもは、朝は5時には起こされていました。
なぜならば、父が5時に起きるからです。
そんなに早く起きて何をするのかというと、5時半から、子ども部屋に集合して自習タイムが始まるのです。
父はだいたい新聞を読んでいましたが、宿題のある子は宿題をする、何もない子は本を読むという、強制コワーキングタイムです。
8時に寝ているとはいえ、5時に起きるのはやっぱりつらくて、みんなフラフラになっていました。
ある日、父は何を思ったのか、とつぜん英語の教材を買って来ました。
昔よくあった、磁気テープのついたカードを機械にとおすと、30秒ほどの短い英会話センテンスが流れるあれです。
そして、朝のコワーキングタイムに全員で、その発音を練習するという地獄の取り組みが始まりました。
眠くてもうろうとしている頭で、父が流した英会話フレーズを、きょうだいみんなでリピートアフターミー。
イヤでイヤで仕方なかったのですが、くやしいことに、いまだに覚えていて使えるフレーズがあります。
父の夢に振り回される日々。最終的には「ヨットで世界一周」
こまかい厳しい謎ルール以上に私の心を悩ませていたのは「高校には行かさない」と父に言われていたことでした。
父の長年の夢は、私が中学を終えたら両親と5人の子ども達でヨットに乗って、世界を一周することだったからです。
この話は、もの心ついた時から聞かされていたことで、ずっと私の心に暗い影を落としていました。なんてこと。船酔いするのに、世界一周とかありえん。しかも、もれなくみんながいく高校に自分は行けないなんて、ますますみんなとの溝が深まる。もう修復不可能なレベルだ、って思ってました。
なんたって中学生ですから。みんなと同じことができない悲しみは、すごく大きかったのです。
それに、東南アジアにはいまだに海賊がいて、船ごと襲われるのも日常茶飯事だと本で読んでビビっていました。実家には、父が集めた航海に関する本がたくさんあり、船旅に関してかなり詳しくなっていました。
ほかにも、ヨットで遭難して40日間漂流した人の体験談とか。一家で何ヶ月もの間、漂流しながらサバイバルをしたイギリス人一家の話とか。もう、怖過ぎる。
とはいえ。なんだかんだ行ってもやらないんじゃないかな?という淡い期待もちょっぴりあったのだけど・・・わたしが中2になる頃、とうとう父はイギリスへ渡り、本当に「カタマラン」という大きなヨットを買って来ました。
ああ、これでほんとうに現実になってしまう、と絶望しました。
それまでにも、週末のほどんとは、父とヨットに乗ることに時間が費やされていました。イギリスで大きなヨットを買う前にも、父は20フィートほどのヨットを持っていて、神奈川の三浦湾においていました。
友達と遊びたかったけど、土曜の昼に家に戻ると、もうみんな支度をして車に乗って待ってる状態。
すぐに家を出てヨットに向かい、土日は船の上で過ごしました。
私は船酔いするので、ヨットは大嫌い。船室に入ると揺れと匂いで吐くので、ずーーっとデッキに座って、潮のしぶきを浴びて顔がベッタベタになるのをじっと我慢していました。
転機は中3のときに訪れた
その年の夏、父は仕事を数週間休み、家族みんなで東京から出航し、駿河湾、瀬戸内海を通って長期の船旅をしていました。
いよいよ来年にせまった世界一周に向けて、新しく来たヨットで長期的なセーリングを試したかったのです。
瀬戸内海の海は穏やかで、船酔いのきつい私と母も、思ったよりも快適に過ごせたのを覚えています。小さな湾の小さな港に立ち寄り、その土地の漁師さんと仲良くなって養殖のヒラメをもらったり、岸壁に登ってくるカニをつかまえて味噌汁にしたり。
ちょっとだけ、船旅も悪くないなあと思った瞬間でした。
しかし山口県あたりまで来た時、運悪く、台風19号という記録的に大きな台風に遭遇してしまいました。
あまり細かいことを覚えていないのですが、船をすすめるのが無理になったので、私たちは電車で東京まで帰ったのだと思います。父は船といっしょに残ったけど、台風の被害でヨットのいちばん大きなマストが折れるという致命的なアクシデントがありました。
それまでの航海中にも、エンジントラブルや、ちょっとした故障や不具合がちょいちょいあったようで、結局、父は世界一周するのをあきらめることになりました。
私はどれだけ嬉しかったことか、わかるでしょうか?
やった!みんなと同じように、念願の高校に行ける!!
しかししかし、ところがどっこい。父はまたびっくり仰天な決断をしたのでした。つづく。
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