子どもの時、高校いかずにお父さんのヨットで世界一周する予定だった話する?その2

東京から縁もゆかりもない山口県に引っ越しをした理由

お父さんのびっくり仰天な決断とは、ずっと暮らしてきた東京を離れて、縁もゆかりもない山口県の小さな漁師町に引っ越すというものでした。

前回までのお話はこちら→ https://ishida-webkontor.com/480/

なぜ山口県なのか、なぜ小さな漁師町なのかという理由は、世界一周の航海をあきらめるきっかけになった台風のとき、お父さんのヨットを守ってくれた漁師さんがいて、その人が住んでいた町を気に入ったから、ということでした。

なんでも、停泊していたお父さんの船が流されるか、岸に打ち付けられそうになっていたのを助けてくれた人がいたそうです。あとは、世界一周をするために東京で仕事を頑張っていたのに、もうそれをやらないなら、東京にいる意味もないみたいな事を言っていた気がします。

これまた、なんだかんだ言っても引っ越し話なんてなかったことになるのでは・・・という私の期待を裏切り、お父さんが新しく家を建てるために買った200坪の芋畑から収穫されたという、大量の芋が東京の家に送られてきました

そうして、中学3年生の12月、わたしの一家は東京から山口県に引っ越しました。今から考えても、なんというムチャな時期だろうと思います。もちろん同級生たちは、高校受験の勉強にいそしんでいる時期でした。

山口県に引っ越した当時、まだ家はできていなかったので、おばあちゃんと両親と5人の兄弟、合計8人で、家が建つ予定の土地の近くで借りた、ボロボロの空き家で半年ほど借家住まいをしていました。受験生だった私に部屋などなく、薄暗い蛍光灯しかつかない小さな部屋で、コタツを机にして受験勉強をしたのでした。

引っ越した先でのお父さんのこだわりに悩む

無事に高校に受かって通学を始めた頃、お父さんのこだわりの家が完成しました。傾斜を利用した半地下室もあり、ちょっとした保養所くらいの大きな家で、当時は地元でかなり目立っていました。

またここでも、お父さんの変わったこわだりが発揮されます。

その1:外から家の中が丸見えになっている

まず、庭に塀をいっさい作らなかった上、一階の居室はすべて大きなガラス窓になっていて、外から家の中が丸見えの状態でした。

都会からいきなり引っ越してきて、塀を作って中が見えなくなるのは良くない、ぜんぶ見えるようにして地域にとけこみたい、という話でした。

まさに、ザ・生活ショー。庭は小さな生活道に面していたので、バイクも自転車も歩行者もうちの庭を横切っていき、ご飯を食べていると、しょっちゅう通行人と目が合いました

その2:お父さん自作の「家族紹介チラシ」を近所にポスティングする

そして、お父さんのこだわり第二弾は、近所に手作りの家族紹介チラシを配布するという行為でした。

これもまた、近所の人に溶け込もうとするキャンペーンの一部で、家族構成とそれぞれのメンバーの特徴をお父さんがまとめ、手書きで書いたチラシをご近所にポスティングしたのでした。

この、家が丸見えなことも、近所にチラシを配布するというのも、15歳のこじらせた私にとっては、相当に耐え難いことでした。

チラシに自分のことを何て書いていたのかハッキリは覚えていないのですが「田舎の子の素朴さと、都会の子の冷静さと、どちらも持っている子です」みたいなことを書いていたように覚えています。

いま考えたら、そのチラシ、とっておけば良かったな。

こじらせすぎた15歳の私の複雑な心境

その時の私の心境がどうだったかというと、東京を離れるのが悲しい反面、正直なところ、ホッとしたという気持ちもありました

1980年の東京は、空前の女子高生ブームでした。POPTEENやSEVEN TEENなどの雑誌が流行り、都会の高校生のリア充な生活ぶりが紹介され、中学生だった私と友達は、いつもワクワクしながら眺めていました。インターネットなんてない時代だったので、情報源はテレビと雑誌くらいでした。

そういった雑誌には「都立広尾高校の○○さんの1日の様子」みたいな感じで、学校行ってバイトして、おしゃれでセンスの良い小物がいっぱい入ったカバンを持ってて、イケてる彼氏とデートする女子高生が、たくさん登場します。

高校には行かせないとお父さんに言われ続けてきたので、そんな東京の高校生活は最初からあきらめていたのですが・・・仮に、高校に行けたとしても。どうせ自分は人と同じことをやらせてもらえない、できないに違いない、という暗い気持ちがありました。

今までそうだったように、これからもきっと、みんながあたりまえにできることは、わたしは何ひとつできず、何者にもなれないままなんだろう。全部あきらめてダサく生きるしかないのだろう、と悲観もしていました。

生まれ変われるかもしれない淡い期待と、やっぱり無理だった挫折

でも、山口県にいったら、東京から来た子というだけで、もしかしたらもしかして、みんながチヤホヤしてくれるかもしれない。
今までのイケてなかった自分を無かったことにして、生まれ変わったみたいに生きれるかもしれないという、少しの希望すらあったのです。

そうして、少しの期待を持ってスタートした山口県での高校生活だったはずなのですが。夏休みに入る頃、もう、高校やめたいという気持ちしかなくなっていました。

それなりに仲の良い子もできて、進学クラスにも入れたのに、なぜかもう、いやでいやで仕方なくなりました。

何でなのか、もうはっきりは覚えていないのですが、たぶん、場所が変われば生まれ変われると思っていたのに、やっぱり、自分は自分のままだったからなんじゃないかと、今は思っています。

雑誌に出てくるような女子高生にあこがれて、東京では無理だったけど、山口に引っ越したらそうなれる、みたいにどこかで思っていたのかなと思います。でも、住む場所が変わっても、けっきょく自分は自分のままで、期待していたような変身ができなかったことに、心折れたような気がします。


高校やめるくらいならデンマーク行ったら?

人生において最高潮にこじらせていた私は、夏休みが始まってしばらくしてから、お父さんに「高校をやめたい」と言いました。

するとお父さんは「わかった、いいけど、高校やめるくらいなら、デンマーク行ったら?」と言いました。

何でデンマークなのかというと、私の叔母=父の姉は、ずいぶん前にデンマーク人の叔父と結婚して、デンマークに移住していたのです。大きくなったらデンマークにおいで、と言ってくれていたのですが、それを待たずに、今行ったらという意味でした。

私は、小さい頃から、おじいちゃんとおばあちゃんに連れられて、デンマークに行ったりしていたそうで、人生で初めて歩いた場所はコペンハーゲンだったらしいです。

そうして、15歳だった私は、3ヶ月だけ行った高校をひとまず休学し、夏休みが終わってしばらく経った10月に、叔母がいるデンマークへ行きました。

デンマークに行ってからも、いろいろあったけど、また長くなったので、続きはまた来週。
なんとこの話、第4話まであるんだよ!長い!


第1話

第2話

第3話

第4話

 

この記事を書いた人

mihoji

大阪でWEB屋さんをやっています。 WordPressを使ったサイト構築と、小規模な企業のマーケティング提案が得意です。 WordPressとIT系勉強会とビールがすき。