先日、仕事で弁護士の先生とランチを食べながらお話していた。
「真実をつきとめるお仕事って大変ですね」と私が言ったら、意外なこたえがかえってきた。
「真実なんて、一生わからないし、存在もしないですよ。あるのは、証拠だけ。自分に有利な証拠を、できるだけたくさんあつめられたほうが、真実になります。」
某少年探偵が「真実はひとつ!」といつも言ってるので、裁判というのは、たったひとつの真実を追求する場なのかと思っていたら、そうではないことをしって、最初は意外に思ったけど、あとでしっくりもきた。
なにが「真実」かなんて、たしかに、誰にもわからないし、決められない。
なんだか哲学的だなあと思った。
それからしばらく経って、また、「真実」について考えた。
きっかけは、子どもたちのトラブル。
いっしょに犬の散歩をしていたときに、息子がふと言った。
「ぼくの大事にしてたベイの部品がない」
彼は、カードやベイブレードやゲーム、普段からほんとうにたくさんのオモチャをもっていて、もう収拾がつかなくなっているように見える。
あれだけたくさんのオモチャを持っていたら、なくなったり、逆にだれかのを所有してたり、ありえる話だと思った。
息子がぽつぽつと話した。
「たぶん、あの子が取ったんだと思う。前、あの子は持っていなかったのに、今は持っている部品がある。他の子も、あの子が取ったにちがいないと言っている」
こういうことは、長女のときにもあったので、そのときのことを思い出しながら、私は話した。
「でも、とったところは見たのかな?見てないんだったら、わからないよね。そんなふうに思うなら、おともだちに、ぼくの部品しらない?って、いっそ聞いてみたら?
聞いてみて、ちがうっていわれたら、もうそれで、おしまい。きちんと自分で管理できてなかったと、あきらめるしかないよ。
今は、おもちゃをたくさん、もちすぎてるとおもう。きょう遊ぶのは10個だけ、とか決めて、なくなればすぐわかるようにして、あそんではどうかな?」
そう言ったけど、納得しているのかどうかは、わからなかった。しっくりはきてないように見えた。でも、ほっといた。
すると。あいかわらず、また同じメンツでベイをやって遊んでいる。あんなに「なくなったかも、とられたかも」って気にしてたのに。何もなかったかのように、あまりに普通だから、気にしてた親は拍子抜けする。
ほんとうは、どうだったのか。盗られたのか無くしたのか。
真実なんて、子どもにとっては、どうでも良いのだなと思った。
そんなことはすっかり忘れて、いっしょに仲良く遊んだら楽しいということを大切に、あいまいでうやむやなままでも、友達関係がなりたっている。
この問題に、双方の大人同士が入ってくると、そうもいかなくなる。真実をつきつめたいのであれば、相手の親にこう伝えないといけない。
「うちの子のオモチャがなくなりました。もしかしたら、あなたのお子さんが持って帰ったかもしれません。念のため調べてもらえませんか?」
こうして白黒つけることになると、お互いの親の心には、ざらっとしたものが残る。
あいまいで、うやむやなことが、いつも良いというつもりは全くない。
もっときちんと、事実をつきつめていく必要がある場面だってある。
でも、それをつきつめてどうしたいのかは、突き詰める前に考えないといけないと思う。
例えば、裁判はそういうもの。自分の気持ちを知りたくてやってみるものではなく、白か黒かを決めて、それが本当にそうなのか、証拠を重ねていく行為なんだよね。
わたしは、できることなら、子ども同士の問題に関わりたくない。
きっと、子どもには、フェアじゃなかったり、ずるかったり、わるかったりすることがたくさんあるかもしれないけど
それでも成り立っている子どもたちの関係を見ていると、その点に白黒つけることが、本質じゃないと思ってしまう時がある。
最近は、こどもたちのトラブルに、学校はともかく、親が介入しすぎるんじゃないかなと感じることがあるんです。
家庭で親が自分のこどもと、なにがわるかったのか、なにがよかったのか、話をするのは必要。
けど、それを超えて、相手の親にも謝ってほしいとか、学校に謝ってほしいとか、大人同士の問題に発展させてしまうと、こども置いてけぼりで、大人どうしのもめごとになってしまう。
できれば、子どもたちの世界だけで話をして解決するのが、いいと思うんですよね。それが仮に、大人の目は至らない点が多かったとしても、その決断を見守るのが、いいと思うんです。